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第4話 最初の狩り

 緑がこれほどまで呼吸に影響を与えることを、僕は初めて知った。ひと呼吸ごとに濃密なものが僕の鼻孔をつまらせる。
 僕が住んでいた村も森に囲まれていたけど、土地自体はなだらかで村人がそこに立ち入ることに何の支障もなかった。
 でもここは違う。起伏の大きな小高い丘や見上げるほど高い切り立った崖がそこかしこにあって、ちょっと中に踏み込むと差し込む陽光がほとんどない薄暗い森は、濃厚な緑と苔とカビと土の匂いを長くそこに留めていた。
 しかもここは死んだ森じゃない。様々な生き物が、それも人間にとって極めて危険なものも多数、蠢いている。
 僕はそんな森の中を、それこそ這いつくばるようにして進んでいた。僕が目指すところはもう目の前、だから僕の体はじんわりと汗をかいていた。それが安物の鎧を体に貼り付けて、ところどころに強烈な痒みをもたらせる。
 でもそれに構っている余裕はなかった。森の匂いの中に獣臭が混じっていたからだ。それは徐々に強くなっていた。
 僕が最初に選んだ仕事は、森に姿をみせるようになったランポスを退治することだった。近隣に暮らす村人からの依頼で、目撃された数は三頭、だから駆け出しの僕にぴったりだとギルドで勧められたんだ。ランポス達は集まるとそこに巣を作り、さらに大きな他のモンスターも呼び寄せる。退治するなら今しかない。
 僕が下げているのはハンターナイフという、名前の長さが僕の腕ほどの片手剣、既製品の中でも一番の安物だが、丸い鉄の盾もあって、僕には充分だった。
 同じハンターという名をいただく防具を胸と脚にもつけてある。ほんとは全身をそれで守りたかったが、他に必要なものを買ったら手元にはお金はほとんど残らなかった。
 苔むした巨岩が迷路のように伸びている一角で、僕は動きを止めた。その少し先に明らかに奇妙な動きを感じ取ったからだ。そこにいるのは恐らく野生の何か、である。
 僕は岩と地面に体を擦りつけながらゆっくりと先に進んだ。そこは他よりちょっと高くなっていて、その先にある小さな小屋が二、三軒は建てられるくらいの広場を見渡すことができた。
 恐らく古いベースキャンプだろう、壊れたテントが建っていて、広場の中心には何か大きな獣の赤々とした肉の塊が置いてあり、それを取り巻くように、青い鱗を全身に持つ巨大なトカゲのような生き物が五頭、うろついていた。
 ランポスだ。トカゲと言ってみたが、前屈みで二本脚で立ち上がっていて、人の身の丈ほどもある体に、指先の巨大な鋭い爪、鳥のように長く伸びた口の中に狂暴に並ぶ牙、ちゃんとした装備をしないと生命すら落としかねない相手である。
「三頭じゃなかったのか?」
 僕は舌打ちした。もっとも、そんなこともあるだろう、なんて思っていたから、さほどの驚きはない。
 もちろんこのまま帰るつもりもなかった。ランポスが五頭くらいなら僕でもなんとかなる。だいたい、初めての仕事で戦いもせずに逃げ帰るなんて余りに恥ずかしい。
 他にもまだいるかも知れないが、ある程度倒せばランポスたちもここを危険だと悟って去っていくだろう。やはり今のうちに倒しておかなければならない。
 幸い、ここは風下である。僕の存在はまだ奴らに気付かれていない。このまま一気に飛び込めば、一頭か二頭は反撃の隙を与えずに倒すことが出来るかもしれない。そうすれば当初の予定のままだ。
 僕は静かに剣を構えた。そして腰を浮かし、両足をしっかりと踏ん張った。何時でも飛び込める体勢だ。
 呼吸と整える。僕の眼下にいる五頭のランポスは未だに僕に気付かず、僕にはやれる、という自信が沸き上がってきた。
 よし、いくぞ! 僕は息を低く吸い込み、全身に力を溜め、それを弾けさせようとする。
 その時だった。僕の頭の上に影が被さった。僅かな木漏れ日を遮るそれが、僕に危険を告げる。耳の周囲がかっと熱くなった。それで僕は前に飛ぶのではなく、真横に転がった。
 僕の頭があったところで、ガチンと牙がぶつかり合う音が響き渡った。僕が見上げると、ランポスの青く細長い顔が僕を睨んでいた。
 他にもまだいたのか! 僕は間髪入れずにさらに横に転がった。鋭い爪が僕の肩を掠めた。
 直ぐにそこに立ち上がる。そして剣を構えた。盾でしっかりとガードも固める。小さな盾だが受け流すのは丁度良い大きさだ。
 広場のほうからも一斉にギャンギャンと鳴き声が響いてきた。ランポスの威嚇の声である。どうやら見つかってしまったようだ。
 このっ! 僕は剣でランポスの頭を横からぶん殴った。ギャッ!と悲鳴をあげてよろけたけど、それだけでは倒せない。僕は立ち直る余裕を与えずにさらに二度、三度と剣を振るった。四撃目を与えようとした時、ランポスはバッタリと倒れて動かなくなった。
 や、やった! 一息つく。その時、僕の視界の遥か高みから落ちてくるものがあった。ランポスが獲物を襲う時の跳躍である。
 ハンターナイフの柄を両手でしっかりと握り、降下して来るランポスに体からぶちあたる。剣の先端は紛れもなくランポスの腹を深く抉った。ランポスは地面に音を立てて落ちた。僕も撥ね飛ばされて尻餅をついた。
 僕の耳に奴らの声が響いて来る。一斉に攻められると不利だ。岩を背に戦うと背後を取られないけど、ランポスは見た目よりも頭が良くて、連携して立体的な攻撃を仕掛けて来る。背後に逃げ場がないと逆に危険だ。
 僕は周囲を確認した。ちょうど良い場所がある。広場の向こうに、さらに先に続く道があった。まるで掘られたように左右の巨岩が壁となって一本道を作り、その上には木々の枝葉が天幕を作っている。
 立ち上がった僕は、その中に駆け込んだ。そして少し走った後で振り返る。やはりランポスは追ってきたが、道幅が狭いことと伸びた枝葉が上を塞いでいることで動きを制限してくれる。
 一、二頭と戦い、そしてランポスが集まって来るとまた走って距離をとる、そうやって道が終わって断崖の側にある広場に出るまでにランポスを二頭にまで減らしていた。
 倒した数はもう七頭を数えていた。
 もういないよな? くそっ、帰ったらギルドに文句を言ってやる!
 広場は断崖の棚のようになっていて、下には川が流れ、遠くの山まで見渡せた。強い風が吹き抜けていく。空は澄んでいて鳥の鳴き声が甲高く響き、陽光が瞼を貫いた。
 さあ、来い! これで終わりにしてやる!
 僕は自分が抜けてきた道の前に立って剣を構えた。いきなりランポスが飛び出してきても充分に対処出来る。
 しかしランポスは奇妙な動きをみせた。頭を低くして唸り声を上げながら、ゆっくりと歩いてきたのだ。威嚇しているポーズだがどうも奇妙な感じだった。
 僕ははっとした。地面に何か大きな影が映っていたからだ。陽光を受けたそいつは断崖の上から僕を見下ろしていた。僕が見上げた時には逆光でその姿をはっきりと観る事は出来なかった。
 でもランポスをさらにひと回り大きくした体躯に頭にある特徴的な鶏冠(とさか)、僕はそれが直ぐにわかった。
 ドスランポスだ! ランポスの群れを束ねる親玉、だからこんなにランポスがいたのか!
 そこから跳躍したドンランポスはザッと僕の目の前に降り立った。その見上げるような巨体はランポスの比じゃない。爪も牙も何倍も大きく狂暴に見えた。ギロっとその眼が僕を睨む。奴に従うように二匹のランポスが左右に散った。
 剣を構えて僕も奴を睨み返した。どうせただの大きなランポスだ、やれる! 僕は自分に言い聞かせた。
 呼吸を整え、奴との間合いを保ちながら、自分に有利な位置に少しずつ動く。ドスランポスも僕を睨んだまま、威嚇は止めない。
 奴が動いた瞬間、僕も地面を蹴った。ドスランポスの横に一気に回り込んで、腹の辺りに一撃を加える。柔らかいと思っていたそこはしかし、ガリッと鋒(きっさき)が捩(よじ)れ、僕の手に強い痺れをもたらせた。
 ギャッとドスランポスが呻く。効いていないわけじゃない。
 ドスランポスが振り返るより早く、僕は動いた。反撃されない角度に飛び込んで、さらに一撃、二撃と攻撃を加えていく。
 周囲を動き回っていたランポス達が僕を狙って飛び掛かってきたが、そこにドスランポスの体が邪魔をして同士討ちになった。
 隙を見て地面に転がったランポスの頭にトドメの一撃を打ち下ろす。直ぐ背後に迫ったもう一匹のランポスの頭を振り返りざまに剣で刎ねた。
 そして僕はドスランポスと一対一で向き合った。それなりのダメージを受けながら、しかし奴はまだまだやる気だった。僕は激しく疲れ始めていたけど、幸い怪我もほとんどなく、充分に戦えた。
 それからは僕とドスランポスとの殴り合いとなった。僕は可能な限り奴からの攻撃を避けたけど、それでも鎧に何度も奴の爪や牙の傷をつけた。
 逆に僕はドスランポスの頭を集中して剣で殴りまくった。長い時間、いや、もしかしたら思っているよりずっと短い時間だったかも知れない。
 ついにドスランポスは脚をもつれらせてその場に倒れ込んだ。僕が最後の一撃を加えようとした時、でも奴は全身をフラフラさせながら立ち上がり、僕に背を向けた。そしてそこから一目散に逃げようとする。
 逃がしてたまるか! 僕は盾を投げ捨てると、ドスランポスの背中にしがみついた。もう僕とドンランポス双方が血と体液でヌルヌルになってたけど、決して振りほどかれないように傷口に指を深く突き刺した。
 ギャンギャンと体を揺らして僕を振り落とそうとする。僕は必死でしがみついたまま、奴の頭に剣を何度も打ちつけた。
 ドスランポスが地面に倒れてからも、僕は奴が動かなくなるまでひたすら剣を振った。やがて僕の力も尽き、とうとう剣すらもてなくなり、僕の手からポロリと落ちた。
 僕は動かなくなったドスランポスを見ながら、木陰のほうに這って行って木の幹に頭を預けて仰向けになった。疲れ果てた僕の意識は直ぐに消えていった。

「おい、坊主、起きろ! 坊主!」
 誰かに頬を叩かれて、僕は目を覚ました。頭がガンガンする。それに手足に力が入らない。それでいて全身がギシギシと軋むように痛んだ。
「大丈夫か? 俺がわかるか?」
 虚ろな視界の中に入る大柄の男、僕はかなり時間をかけて彼をようやく認識した。屈んで僕を覗き込む彼は、使い込まれた鮮やかな蒼色の鎧で全身を包んだ、短い茶髪に同じ色の髭を蓄えた彫りの深い顔で、大きな掌と太く低い声で僕の意識を眠りの渕から引き戻した。
「だ、だいじょう、ぶ、です」
 答えてみたものの、僕の声は震えてなかなか言葉にならなかった。余程疲れているんだろう。
「ギルドから依頼があってな。ランポスだけじゃなく、親玉の存在を確認したから討伐を頼むって。先に若いのが行っているから手助けしろってことだったが」
 男はドスランポスの死体を眺めた。
「どうやら手助けは必要なかったようだな。お前は良くやったよ」
 僕はどうにか笑ってみせたが、顔が引きつってどんな表情になっていたことか。周囲を見ると、濃紺の鎧に長い槍を持った男や体の線がはっきりと出ている白い鱗の鎧を上半身に着込み、広がったフレアスカートのような鎧で下半身を覆っている僕と同じ片手剣、でも僕のものより遥かに上等なもの、を持った女の人がいた。
「ネコタクを呼んである。街まで連れて帰ってやるからゆっくりと休め。もちろん獲物の横取りなんてしないから安心しろ」
 男の人に言われるまでもなく、僕はもう何も出来なかった。ありがとう、とどうにか口に出して、僕は再び眠りに落ちていった。


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